DAILY KOREAN PRO BASEBALL 2

1982年に発足し、2024年時点で10球団が加盟する韓国野球委員会(KBO)による韓国のプロ野球リーグ(通称KBOリーグ)に関するブログ。レギュラーシーズン、ポストシーズン(韓国シリーズなど)の試合速報や球団別の情報、現役プロ選手が含まれる野球韓国代表が出場する国際大会の情報などもお伝えします。 twitter : @kbodigest

  第2回 SKワイバーンズ

「野神去り、世代交代へ」 
2011年成績 : 71勝59敗3分け(韓国シリーズ準優勝、公式戦3位)
チーム総合採点…70点


 2010年は圧倒的な強さで3度目の韓国シリーズ優勝を果たしたSKだが、2011年シーズンはエースのキム・グァンヒョンなど開幕を前にして故障者が多く、連覇は厳しいのではないかという見方も強かった。だが就任5年目を迎えた野神(野球の神)キム・ソングン監督は、4月を15勝6敗と首位で乗り切る開幕ダッシュに成功した。打線はSKらしいチームプレーで着実に得点を重ね、チョン・デヒョン、チョン・ウラムなどの鉄壁のリリーフ陣も健在だった。しかし2010年最多勝で優勝の原動力となったキム・グァンヒョンの調子が上がらず、不安材料も多かった。
 5月になるとソン・ウンボムも負傷で離脱し、打線も下降気味になり調子が落ちてきた。だが3年目を迎えた外国人投手グローバーやリリーフ陣の踏ん張りで、好調LGやサムソンの追い上げをかわし何とか首位の座を守った。だが6月3日から5日、キアとの3連戦で3連敗すると首位戦線は混沌としてきた。入梅した後半雨天中止が相次いだ6月は10勝11敗と負け越し、28日には首位の座をついにサムソンへ譲ると、その後奪回することはなかった。


 キム・グァンヒョンは心身の不調で長期戦線離脱となり、先発として起用された新外国人投手マグレーンも期待にこたえられず退団となるなど、先発陣でがんばるのはグローバーだけとなった。7月6日にはついに7連敗でサムソン、キアの後塵を拝し3位にまで後退した。マグレーンに代わる新外国人投手ゴードンと契約し巻き返しを図ったが、梅雨明けが遅れた7月は7勝9敗と負け越した。
 8月になると不動の1番打者チョン・グヌの戦線離脱などもあり、なかなか調子が上向かなかった。そして8月17日、キム・ソングン監督が2011年シーズン限りでの退任を公にすると、翌18日球団側が監督を解任し、監督代行にはイ・マンス2軍監督が就任した。イ・マンス監督代行の最初の試合となったサムソン戦は、2試合連続の完封負けといいところがなく、試合後キム・ソングン監督の解任に抗議したファンたちが、文鶴野球場のグラウンドになだれ込む騒動なども起こった。そのころ6月までは下位に低迷していたロッテが調子を上げ、首位サムソンが独走態勢を固める中、キアとの2位争いは三つ巴となってきた。
 8月末の5連敗で4位まで後退したが、9月になりオム・ジョンウクを抑えに起用するなど強みであるリリーフ陣の再編でロッテとの2位争いを続けた。だが9月22日の直接対決でロッテに敗れ3位に後退すると、10月4日には3位以下が確定した。翌5日のキア戦で勝利し公式戦3位が確定し、10月8日からの準プレーオフでキアと対戦することになった。


 準プレーオフ第1戦はキアがユン・ソンミン、SKがポストシーズンに間に合わせたキム・グァンヒョンとエース級の対決となったが、ユン・ソンミンを打てず1−5で敗れた。第2戦は公式戦後半打撃好調だったアン・チヨンの本塁打などで接戦となり、延長11回裏イ・ホジュンのタイムリーで3−2とサヨナラ勝ちした。舞台を文鶴から敵地光州に移した第3戦、先発ゴードンの好投で2−0の完封勝ちを収めると、第4戦はユン・ソンミンを攻略、ポストシーズン初先発と大抜擢のユン・ヒィサンの好投や打線の爆発もあり、8−0で3連勝とし、プレーオフ進出を決めた。
 公式戦2位ロッテとのプレーオフは、公式戦後半勢いのあったロッテが有利との評判が高かった。だがSKには過去4年連続韓国シリーズ出場、うち3度の優勝とポストシーズンで結果を出している経験があり、敵地社稷での第1戦は延長10回表、チョン・サンホの勝ち越し本塁打で7−6と接戦を制した。第2戦は1−4で敗れ互角の展開となり、本拠地文鶴に戻っての第3戦はソン・ウンボムの好投や、ポストシーズン好調の40歳のベテラン、チェ・ドンスの活躍などもあり3−0で勝利し、韓国シリーズ進出に王手をかけた。第4戦は0−2で敗れたが、雨で1日順延となった敵地釜山での第5戦では1回裏に先制されてもパク・チョングォンの2打席連続本塁打などで逆転すると、8−4で勝利し史上初の5年連続韓国シリーズ進出を決めた。キム・ソングン監督が去っても短期決戦の勝ち方を心得ているチームらしく、肝心なところで戦力的に勝る相手に勢いを与えなかった。
 だが準プレーオフプレーオフの激闘と息をつく暇がなかったSKに、選手層が厚く接戦に強い公式戦優勝のサムソンと互角に戦う力は残っていなかった。敵地大邱での第1戦は0−2、第2戦は1−2とロースコアの接戦で敗れたが、点差よりも力の差は明瞭だった。本拠地文鶴に戻っての第3戦こそチェ・ドンスの本塁打などで2−1と勝利したが、第4戦は4-8と敗れ王手をかけられると、第5戦は1−0とまたもや接戦で敗れ、2010年は4連勝して韓国シリーズ優勝を決めた相手に1勝4敗で完敗した。


 SKのチーム防御率は3.59(8球団中2位)だったが、リリーフ陣の防御率は2.79と、苦しい先発陣を何とか継投でしのぎ勝利を拾う野球は2011年シーズンも変わらなかった。規定投球回数(133回)に達した投手が誰もおらず、最多イニングを投げたのはグローバー(121回)だったが、シーズン終盤は故障で離脱しポストシーズンには登板しなかった。エースとして期待されたキム・グァンヒョンが4勝しかあげられず、ポストシーズンでも活躍できなかった。先発にリリーフに活躍した右のソン・ウンボム(8勝)、左のコ・ヒョジュン(5勝)、シーズン途中入団ながらポストシーズンで特に活躍したゴードン(6勝)などが目立った。
 リリーフ陣の柱は最多ホールド(25)のタイトルを獲得したチョン・ウラムで、チョン・ビョンドゥ、2人のイ・スンホ、2011年シーズン1軍に定着したパク・ヒィスと左腕が中心だった。シーズン中盤まで抑えを任されていたチョン・デヒョンが故障者続出のため中継ぎに回ると、長い間の故障が癒えた速球派のオム・ジョンウクが抑えを任され、ポストシーズンでも活躍した。
 チーム打率(.263)は8球団中5位、本塁打数(100)は3位、得点(584)は5位と、あまり打線の強力なチームではなく、後半戦は故障者続出で得点力不足が目立った。打線の軸となったのはサードのチェ・ジョンで、チーム打撃部門三冠王(.310、20本塁打、75打点)に輝いた。左の大砲パク・チョングォンは公式戦13本塁打と結果を残せなかったが、ポストシーズンではプレーオフMVPを受賞するなど勝負強さは相変わらずだった。またベテラン内野手イ・ホジュン規定打席に達し14本塁打と復活の兆しを見せ、LGから移籍して2年目のアン・チヨンが12本塁打と特に後半戦で活躍したが、外野のレギュラーがしっかり固定できなかった。ベテラン捕手パク・キョンワンが不在の中、チョン・サンホが正捕手として活躍し11本塁打を記録した。
 
 2011年韓国シリーズ終了後、イ・マンス監督代行は韓国シリーズ進出までチームを導いた点が評価され、正式に監督へ就任した。そして在日韓国人キム・ソングン監督とはチームの方針を一変させ、日本人コーチは誰も呼ばなかった。
 オフのFA(フリーエージェント)市場では大きな動きがあった。リリーフの中心だったアンダースローのチョン・デヒョン、そして生え抜きの左腕イ・スンホがともにFAでロッテへ移籍した。代わりにロッテで長年リリーフの中心だったサイドスローのイム・ギョンワン、LGで長年正捕手を務めたチョ・インソンをFAで契約した。またイム・ギョンワンの補償選手としてロッテへ移籍したイム・フンが、チョン・デヒョンの補償選手として1ヶ月足らずでまたSKへ復帰するというドタバタ劇もあった。外国人選手であるが、グローバー、ゴードンともに再契約せず、2009年から2011年までキアで活躍したロペス、ドミニカ共和国出身の右腕サンティアゴと2人ともに投手となった。
 
 思わぬ形で野神キム・ソングン監督が去り、人格者で知られたイ・マンス監督がSKを率いる2012年シーズン。特有の日替わり打線、小刻みな継投で2007年から2010年まで黄金時代を築いたSKは、明らかに世代交代の時期にさしかかっている。2011年は本領を発揮できなかった選手たちの復活とともに、イ・マンス監督は果たして「楽しみながら勝つ」という自分の野球を貫き通し、前監督とはまったく形で王座に返り咲くことができるのか、大いに注目される。

(文責:ふるりん)