DAILY KOREAN PRO BASEBALL 2

1982年に発足し、2024年時点で10球団が加盟する韓国野球委員会(KBO)による韓国のプロ野球リーグ(通称KBOリーグ)に関するブログ。レギュラーシーズン、ポストシーズン(韓国シリーズなど)の試合速報や球団別の情報、現役プロ選手が含まれる野球韓国代表が出場する国際大会の情報などもお伝えします。 twitter : @kbodigest

  2006年 プロ野球回顧録

 2006年、韓国プロ野球最大の話題はシーズン前に訪れてしまった。米国メジャーリーグ開催の史上初となる野球の世界一決定戦、WBC(ワールドベースボールクラシック)韓国代表の快進撃である。
 ペ・ヨンス、オ・スンファン(以上サムソン)、イ・ビョンギュ(LG)、キム・ドンジュ(トゥサン)、ク・デソン(ハンファ)、イ・ジョンボム(キア、元中日)など韓国プロ野球の精鋭、イ・スンヨプ(読売)、パク・チャンホ(パドレス)、キム・ビョンヒョン(ロッキーズ)、ソ・ジェウン(デビルレイズ)など日米で活躍する海外組の選手を融合した史上最強チームは、キム・インシク監督(ハンファ)やソン・ドンヨル投手コーチ(元中日、現サムソン監督)の統率力と采配により、一致団結し国を背負って戦う代表チームのあり方を国内外に示した。
 日本・東京ドームでの1次リーグ(3月3−5日)は2003年アテネ五輪予選で敗れ出場権を逃した因縁の相手、台湾との緒戦に2−0で辛勝すると、次の相手中国には10−1で快勝した。韓国は最高のライバル日本との対決にも、イ・スンヨプの逆転2ランで3−2と勝利し、1次リーグ3連勝の首位で2次リーグの行われる米国・アナハイムへと旅立った。

 2次リーグ(3月12−16日)でも韓国の強さが際立った。緒戦メキシコ戦にイ・スンヨプの2ランと得意の投手リレーで3−2と接戦を制すると、続く一流メジャーリーガーが勢ぞろいした米国戦もイ・スンヨプの先制3ランなどで7−3と勝利し、大番狂わせを演じた。そして2度目の日本戦もイ・ジョンボムのタイムリーとオ・スンファンの気迫の投球で2−1と接戦を制し、2次リーグも3連勝し大会参加16か国中唯一の無傷の6連勝で準決勝に進出した。
 準決勝(3月19日)は日本との3度目の対決となった。試合は途中まで緊迫した投手戦となったが、日本が7回福留の2ランで均衡を破り韓国は6−0で敗れ決勝進出はならなかった。この快進撃に韓国中が酔いしれた。だがキム・インシク監督は「日本は選手層が厚く同じようなレベルの代表チームを3つ作れるが、韓国は1つしか作れない」と謙虚な姿勢を崩さなかった。この大会で5本塁打、10打点と活躍したイ・スンヨプはその勢いを読売での新しいシーズンに持ち込み、4番打者として4位に低迷するチームの中で一人気を吐いた。

 WBCの快進撃によりプロ野球人気回復なるか、と思われたがそれは目論見違いだった。4月8日の開幕戦の総観客数も前年より少なく、スポーツマスコミも6月のサッカーW杯の話題が多くなり、プロ野球の影は薄くなった。また、スポーツ紙の1面も読売でホームランを量産するイ・スンヨプの姿が目立つようになった。また、ソウルを本拠地とするLG、釜山を本拠地とするロッテと、集客が見込める大都市のチームが低迷したのも観客動員数減少に拍車をかけた。2006年の総観客動員数は約303万9000人と、2005年比で約10%減少した。

 2006年韓国プロ野球の優勝争いは、投手力を中心に守りの野球をする前年の覇者サムソンを軸に、それにク・デソンの古巣復帰などで前年の勢いをそのまま持ち込んでいるハンファ、前年後半戦快進撃を続け3位となったSKが中心になると予想された。開幕直後は史上初の日本人野手・塩谷和彦(元オリックス)の活躍でSKが首位となったが、5月の声を聞くと前年好調だった先発投手陣が崩れ、優勝戦線から脱落した。塩谷も5月に右手指を骨折し全治2ヶ月の大怪我を負うと、そのまま戦線に復帰できず6月に退団した。
 サムソンは序盤こそ出遅れたが、徐々に地力を発揮し5月からは優勝争いに加わった。エースのペ・ヨンスはなかなか調子が上がらなかったが、前年新人王の守護神オ・スンファンがセーブを積み重ねた。ハンファは高卒新人ながら先発ローテーション入りした左腕リュ・ヒョンジンの活躍もあり、前年と同じ好調を維持し続けた。意外だったのが前年主力の相次ぐ移籍により7位に低迷した現代が、キム・ジェバク監督により野手ではイ・テックン、投手では新人チャン・ウォンサム、パク・チュンスなどが主力に抜擢され、優勝争いに加わり続けたことだった。

 サムソンは6月初めに首位に立つと、2位以下の現代、ハンファ、キアなどが星の潰しあいをしたこともあり、徐々に独走態勢に入った。一方ロッテとLGの最下位争いも激しく、近年成績不振が続いていたLGは6月にイ・スンチョル監督がシーズン途中で辞任したが、チーム浮上のきっかけにはならなかった。前年やっとそれまでの4年連続最下位から脱出し、5位に浮上したロッテは今季こそ悲願のポストシーズン進出を狙ったが、序盤に大きくつまずき最下位争いを続け、イ・デホの打率、本塁打、打点の打撃三冠王だけが光るシーズンだった。 5年ぶりにロッテに復帰したホセは2006年のうちに41歳となり、本塁打など史上最高齢記録を塗り替えた。

 サムソンは8月下旬に2位現代とのゲーム差を8まで広げ、このまま余裕で公式戦優勝となり韓国シリーズ進出を決めるかと思われた。だが9月になるとヤン・ジュンヒョク、キム・ハンスなどベテランの多い打線に元気がなくなり、2位現代の猛烈な追い上げもあって独走態勢にかげりが見え出した。一方ポストシーズン進出権をかけた4位争いも激化し、前年最下位だったが野手ではイ・ヨンギュ、投手ではユン・ソンミン、新人ハン・ギジュなど若手の活躍で建て直しに成功したキア、前年は韓国シリーズに進出したがWBCでのキム・ドンジュの故障など戦力がそろわず、貧打で苦しい戦いを強いられていたトゥサンの一騎打ちに絞られた。
 下り坂の首位サムソンは2位現代との直接対決で連敗したこともあり、9月下旬には1ゲーム差まで迫られ、優勝争いは10月までもつれるかと思われた。だが現代はその前に連敗し、サムソンが何とか逃げ切り9月29日に2年連続の公式戦優勝を決めた。し烈な4位争いはキアが直接対決で連勝したこともあり、トゥサンの猛追から何とか逃げ切った。
 3位はリュ・ヒョンジンの最多勝最優秀防御率最多奪三振の投手三冠王による活躍で優勝争いに踏みとどまり続けたハンファだった。リュ・ヒョンジンは史上初めて新人王、シーズンMVPを同時受賞した。なお、オ・スンファンは10月1日シーズン47セーブを記録し、従来の韓国プロ野球記録(42セーブ)を大きく塗り替える活躍で韓国球界ナンバー1ストッパーの座を不動のものとした。

 ポストシーズンは10月8日からキアとハンファの準プレーオフで幕をあけた。1勝1敗で迎えた第3戦でハンファが6−4と接戦を制し、2年連続で韓国シリーズ出場をかけたプレーオフへと進出した。10月13日からの現代とハンファのプレーオフは、第1戦現代が快勝したがその後ハンファが3連勝し、7年ぶり2度目の韓国シリーズ出場を決めた。WBCで韓国代表をベスト4に導いた名将キム・インシク監督率いるハンファと、ソン・ドンヨル監督率いる覇者サムソンとの対決は大きく注目を集めた。

 10月21日に開幕した韓国シリーズ第1戦は、サムソンがペ・ヨンスの好投で4−0と快勝し強さを見せ付けた。雨天で1日順延となった第2戦はハンファが制したが、サムソンは第3戦、4戦と2試合連続で延長戦を制しシリーズ連覇に王手をかけた。だが第5戦は互いにチャンスをつくるが決め手に欠き、延長15回を終えても1−1の同点だったため、シリーズ史上最長の5時間15分の激闘は引き分けに終わった。
 続く第6戦はサムソンが序盤に3点をリードするが、ハンファも粘り3−2と1点差で9回裏最後の攻撃を迎えた。ここでハンファは1死満塁と一打サヨナラ勝ちのチャンスをつくるが、守護神オ・スンファンが気迫で抑えサムソンが球団史上初の韓国シリーズ連覇を達成した。 シリーズはサムソンの4勝1敗1分だったが、3試合も延長戦があり接戦が多く両者にそこまでの力の差は感じられなかった。

 2006年の韓国プロ野球は投高打低の傾向が顕著だった。総試合数は同じだったが、総本塁打数が2005年の876本から661本と200本以上減り、全体の打率も.263から.255に下がった。本塁打王イ・デホ(ロッテ)の26本をはじめ、20本塁打以上の打者が全球団でわずか4人しかいなかった。
 無論、防御率は2005年の4.21から3.58と大きく下がった。わずか3年前の2003年にはイ・スンヨプ(当時サムソン)がシーズン56本塁打を記録し、シム・ジョンス(当時現代)が53本塁打とホームラン合戦が繰り広げられていたのも昔日の感がある。
 その要因としては、シム・ジョンスなどかつて強打者として活躍していた選手たちが軒並み衰え世代交代の時期にあること、一方でリュ・ヒョンジンやオ・スンファンなど若き才能あふれる投手の出現などがあげられた。だが最近、マウンドが国際基準より高く、低反発の飛ばないボールを使っていたため投手有利だったのではないか、と言われるようになり、KBO(韓国野球委員会)は来季からマウンドを低くすることなどを検討するようになった。今後の動向に注目したい。

 さて、韓国シリーズを制したサムソンは11月9日からアジアシリーズ2006(日本・東京ドーム)に韓国代表として出場し、準優勝に終わった前大会の雪辱を晴らそうとした。だが韓国シリーズの激闘の疲労が抜けきれず、故障者も多かったためチーム状態は最悪だった。緒戦の北海道日本ハム(日本代表)戦は7−1で敗れたが、翌10日のチャイナスターズ(中国プロ野球選抜)戦は13−1でコールド勝ちした。
 決勝進出をかけた11日のLa New(台湾代表)戦は、サムソンは4回表ヤン・ジュンヒョクの2ランで先制したが、その後先発ブラウン(元阪神)などが打たれ逆転されてしまう。打線もチャンスにあと一本が出ず3−2で敗れ、2年連続の決勝進出はならず、公式戦と台湾シリーズを圧倒的な力で制したLa Newの勢いに完全にのまれてしまった。

  例年11月は完全なシーズンオフだが、韓国球界には2006年最後のビッグイベントが待っていた。大会3連覇を狙ったアジア大会である。代表選手は1名を除き韓国プロ野球の一流選手たちで構成された。リュ・ヒョンジン(ハンファ)、イ・デホ(ロッテ)、チョン・グヌ(SK)など代表に初めて選出された選手も多かった。
 11月30日の緒戦の台湾戦はともにプロ選手が主体で構成されたチームで優勝候補同士による事実上の決勝戦と言われ、大いに注目された。韓国の先発ソン・ミンハン(ロッテ)は5回まで3失点してしまいリードを許すと、打線も台湾の先発郭泓志(ドジャース)、2番手姜建銘(読売)と海外で活躍する選手からチャンスを作るもののなかなか得点を奪えず、4−2で敗れてしまった。
 12月2日の日本戦もリュ・ヒョンジンが先発したが調子は最悪で乱打戦となり、9回裏オ・スンファン(サムソン)が長野(日大)にサヨナラ3ランを打たれ、10−7で敗れてしまった。
 結局アジア大会は3連覇を逃し、銅メダルと最悪に近い結果で終わった。アジアシリーズに続いて台湾勢に敗れたため、2007年12月の北京五輪予選に向け代表チームの見直しを求める声が上がった。おそらく北京五輪予選ではWBCと同様の海外組を交えた最強チームが構成される可能性が高くなってきたが、国内外ともに生きのいい若手選手が出てきている台湾が強敵として立ちふさがることは明白で、徹底した台湾対策が求められるであろう。

 オフシーズンとなり、各球団ともに来季をにらんだ補強や改革に臨んだ。特に球団史上初の最下位に低迷したLGは、現代を4度の韓国シリーズ制覇に導いたキム・ジェバクを新監督に迎えた。主軸打者イ・ビョンギュはFAで日本プロ野球・中日へ移籍したが、その穴を埋める大補強を行った。トゥサンのエースとして活躍しFAとなっていたパク・ミョンファン、新外国人としてサムソンで活躍したハリッカラ、日本プロ野球ダイエーで活躍したバルデスなどを獲得し、チーム再建へ本腰を入れ始めた。
 6位に終わったSKはかつてサンバンウル、LGの監督をつとめ、2006年は日本プロ野球千葉ロッテの巡回コーチとなっていた名将キム・ソングンを新監督に迎えた。また日本、台湾で活躍したレイボーン、ロマノ(元広島)の2人の外国人投手を獲得し、戦力補強に努めた。
 また、キム・ジェバク監督を引き抜かれた現代はキム・シジン投手コーチを監督に昇格させたが、他のコーチも何人かLGへ移籍したため、その前途はやや多難に思える。

 2006年の韓国プロ野球は例年になく話題が多かったが、同時に問題点も浮上した。国民が海外で活躍する選手ばかり注目し国内のプロ野球に観客が集まらず、選手の海外流出に歯止めがかからない。また韓国プロ野球の選手層は決して厚くはなく、国内組だけで代表チームを構成しても、国際大会では勝てなくなっていた。また、これまでの最大のライバルは日本だったが、台湾というもう一つの難敵が台頭してきた。これらの課題にどう向かい合っていくか、2007年も韓国プロ野球から目が離せない。 

(文責;ふるりん)