DAILY KOREAN PRO BASEBALL 2

1982年に発足し、2024年時点で10球団が加盟する韓国野球委員会(KBO)による韓国のプロ野球リーグ(通称KBOリーグ)に関するブログ。レギュラーシーズン、ポストシーズン(韓国シリーズなど)の試合速報や球団別の情報、現役プロ選手が含まれる野球韓国代表が出場する国際大会の情報などもお伝えします。 twitter : @kbodigest

  第5回 トゥサンベアーズ

「長期政権のあっけない幕切れ」 
2011年成績 : 61勝70敗2分(公式戦5位)
チーム総合採点…30点

2011年シーズン開幕前、8球団で最長政権となっていた8年目を迎えたキム・ギョンムン監督は、契約年度最終年ということもあり、今年こそは初の韓国シリーズ優勝をという意気込みで臨んでいたと思われる。8球団トップクラスの強力打線に、日本プロ野球から左腕イ・ヘェチョン(元東京ヤクルト)が復帰し、新外国人投手ニッパートの評価も高く、優勝候補にあげる声も少なからず聞こえた。
だが、2010年チーム最多の14勝を記録したものの、日本プロ野球東北楽天へ移籍した外国人投手ヒメネスの代役として期待した新外国人投手ラミレズが、3月の示範競技でまったくいいところがなく、公式戦で一度も登板せず4月初めに解雇されてしまうなど、不吉な前兆があった。


 4月2日、蚕室野球場でのLG戦はニッパート、イム・テフンの完封リレーで2−0と勝利し、幸先良いスタートを切った。4月は13勝7敗1分けと好調で特に19日から24日まで5連勝し、首位SKを追いかけ2位につけ、ニッパートも4連勝で先発の柱となり、イム・テフンが抑えとして活躍した。しかし新戦力のイ・ヘェチョンは先発で通用せず、リリーフでようやく1勝をあげただけと不安を残した。
 5月になるとチームは下降線をたどり始めた。ニッパート、キム・ソヌの両先発は好調を維持したが、他の先発が続かず、イム・テフンは7日のロッテ戦で逆転2ランを打たれ抑えに失敗すると、私生活でのスキャンダルもあって2軍へ降格し、このあと戦力として機能することはなかった。そして4月は好調だった打者たちも5月は不振に陥り、正捕手ヤン・ウィジ、ソン・シホンなどの故障者が出て苦しい状況に陥った。5月19日のハンファ戦で敗れ勝率5割を切り6位に後退すると、その後シーズンを通して5割に復帰することはなかった。
 結局5月は7勝17敗1分けで終わり、6月になっても状況は好転しなかった。4月末に契約した新外国人フェルナンドは期待にこたえられず、起爆剤となるような選手もいなかった。9日のキア戦で5連敗となりついに7位にまで後退し、その後6位に復帰したものの、またもや7位になり、11日のSK戦でニッパートが打たれ0-6と完封負けを喫すると、翌6月12日、キム・ギョンムン監督がシーズン途中ながら辞任した。シーズンの残り試合はキム・グァンス監督代行が指揮をとることになった。
 6月後半から梅雨で雨天中止の試合が相次ぎ、不振だったロッテが自滅する形でトゥサンは5位に浮上した。だが4位以上との差は大きく、7月5,6日のロッテとの直接対決に連敗しまたも6位となった。梅雨が長引き試合の間隔が空いてしまったが、ロッテとの激しい5位争いは続いた。オールスター戦(7月23日)を挟んで、7月26−28日のLG3連戦がすべて雨天中止となり、7月後半の試合は実質上ロッテとの6連戦となってしまったが、ここで1勝5敗と負け越してしまった。特に7月29日から31日の敵地社稷での3連戦で3連敗したのがあまりにも痛かった。この7月のロッテとの直接対決8試合で1勝7敗と大きく負け越し、トゥサンは6位に沈み、4位の座からは大きく遠ざかってしまった。
 8月も勢いが戻ることはなく、ハンファとの6位、7位争いに終始した。ニッパート、キム・ソヌに続く先発が出てこず、リリーフでも勝ちパターンが作れず苦しい戦いが続いた。それでも過去4年連続ポストシーズンに進出してきたチームであり、9月の反抗が期待された。そして9月1日から7日まで5連勝と波に乗り始めたが、ハンファも追走し突き放せなかった。課題だった抑えにはフェルナンドが定着し、キム・ソヌ、ニッパートの2人で合計7勝をあげたが、その後が続かないのが相変わらずで、9月末には4連敗し7位にまで後退し、2006年以来5年ぶりにポストシーズン進出(公式戦4位以上)失敗も確定した。
 10月の残りの消化試合5試合は7月以降不調のLG、最下位独走のネクセンと相手にも恵まれ5連勝で終わり、LG,ハンファを抜いて公式戦を5位で終えたが、4位キアとは8.5ゲーム差もつけられていた。5月から9月まで5ヶ月連続で負け越し、過去4年間ポストシーズンを戦ったチームの姿はそこになかった。
 

 ここ5年間で最悪の成績に終わった理由は複数あげられる。そのひとつは、キム・ギョンムン監督のもとで見られたリリーフ主体の投手リレーが機能しなくなってしまったことである。特に抑えを定めることができず、チョン・ジェフンの8セーブがチームセーブ最多となった。また中継ぎも不振で、ホールド数はコ・チャンソンの14が最多と、上位球団に比べて見劣りした。右だとノ・ギョンウン、左だとイ・ヒョンスンが中継ぎとして柱になっていたが、防御率は4点以上と高く安定感を欠いた。
 先発陣は韓国4年目の元メジャーリーガー、キム・ソヌが16勝とチーム最多勝、ニッパートが8球団外国人投手最多の15勝と活躍したが、それに続く3番手が抑えから先発に転向したイ・ヨンチャンの6勝とかなりの格落ちであった。また1勝に終わったイ・ヘェチョンが期待外れだったこともあり、これといった若手も台頭せず4番手以降の先発を確立できなかった。リリーフもコ・チャンソンの不振などで層が薄くなり、チーム防御率は8球団中6位の4.26で、これでは大きな連勝など無理だった。事実5連勝が2度だけで、6連勝以上がなかった。
 打線はチーム打率.271は8球団中2位と高かったが、チーム本塁打数が92本と7位と迫力を欠き、併殺打も多くチーム得点(614)は4位と攻撃力は決して強くなかった。2010年は広い蚕室野球場を本拠地としながらも、8球団中2位の149本塁打を記録し、特に5人もの選手が20本塁打以上を記録していた。しかしそのうち2年連続で20本塁打以上を記録した選手はおらず、2011年のチーム最多本塁打はキム・ドンジュの17本だった。2010年はチーム最多本塁打の24本を記録したキム・ヒョンスも13本に減少したが、チーム最多の91打点と活躍した。しかし2010年にキム・ヒョンスと並ぶ24本塁打を打ったイ・ソンヨルは不振で7本塁打に終わるなど、大砲の威力低下がそのままチームの不振につながった。
 なお、キム・ギョンムン監督時代にイ・ジョンウクなど快足の選手をそろえ、「陸上部」と呼ばれた機動力野球はその面影を少し残していて、チーム盗塁数(130)は8球団中2位だった。特にオ・ジェウォンは46盗塁で自身初となる盗塁王のタイトルを獲得し、低迷したチームでの数少ない明るい話題となった。また高卒3年目のチョン・スビンが外野のレギュラーに定着し31盗塁を記録し、成長のあとを見せた。
 トゥサンはここ数年間でイム・テフン(2007年)、イ・ヨンチャン(2009年)、正捕手となったヤン・ウィジ(2010年)と3人の新人王を輩出し、若手の育成と起用に定評があった。しかし2011年はチームに勢いを与えるような新鮮な若手の台頭がなかったのも低迷につながった。


 公式戦を終え間もない10月9日、キム・ジヌク新監督が1軍バッテリーコーチから昇格する形で就任した。また首席コーチに日本シリーズ優勝経験のある日本人指導者・伊東勤(前西武監督)を迎え、長期政権の面影を払拭する意味もあってチームの改革に乗り出した。FA(フリーエージェント)選手の獲得など大きな補強はなかったが、前年のヒメネスの轍は踏むまいとニッパートを残留させ、フェルナンドとは再契約せず、新外国人投手として抑え候補のスコット・プロクター(ニューヨークヤンキースで活躍)と契約した。
 2012年シーズン、1軍監督初経験となるキム・ジヌク新監督は未知数な部分が多いが、前任のキム・ギョンムン監督も1軍バッテリーコーチからの昇格であったため、その再来として巻き返しが期待されている。不振に終わった選手たちが本来の力を取り戻せば、蚕室野球場のファンたちに2年連続でため息をつかせるようなことはないはずである。

(文責 : ふるりん