DAILY KOREAN PRO BASEBALL 2

1982年に発足し、2024年時点で10球団が加盟する韓国野球委員会(KBO)による韓国のプロ野球リーグ(通称KBOリーグ)に関するブログ。レギュラーシーズン、ポストシーズン(韓国シリーズなど)の試合速報や球団別の情報、現役プロ選手が含まれる野球韓国代表が出場する国際大会の情報などもお伝えします。 twitter : @kbodigest

  2010年韓国プロ野球十大ニュース


 2010年、韓国プロ野球は史上最多の観客動員数を2年連続で更新するなど、かつてないほどの盛り上がりを見せた。1年の最後にあたり、その中で特筆すべき十大ニュースを選んでみた。


第10位  リュ・ヒョンジン、キム・グァンヒョンとの直接対決、またもや実現せず
 今の韓国球界を代表する左腕エースのリュ・ヒョンジン(ハンファ)、キム・グァンヒョン(SK)。2010年、リュ・ヒョンジンは最優秀防御率最多奪三振の二冠、キム・グァンヒョンは最多勝のタイトルを取った。しかしこの2人の直接対決は、2010年もまた見られなかった。
 2009年、2010年と2年連続でSKとハンファは開幕カードで対決したが、キム・グァンヒョンはコンディション不良でともに開幕に間に合わず、晴れの舞台での対決は実現しなかった。5月21日から23日のハンファ−SKの3連戦で、キム・グァンヒョンは22日、リュ・ヒョンジンは23日の登板が予定されていた。しかし22日の試合が雨天中止となり、予告先発されていたキム・グァンヒョンは翌23日にスライド登板となり、この2人の直接対決が見られるかとすべての野球ファンたちが注目した。ところが23日、17時の試合開始直前に突如雨が降り出し2日連続で雨天中止となり、結局直接対決はまたもや実現しなかった。しかも雨は比較的早く止み、天はまるでこの2人の対決をもっと大事な場面で見たいかと言っているかのようだった。ひょっとしたら、この2人の対決は普段の公式戦ではなく、韓国シリーズのような大一番でないと見られないのかもしれない。


第9位  イム・スヒョク、10年の闘病の果てに他界 
 2000年4月、蚕室野球場でのロッテ−LG戦で、2塁走者のイム・スヒョク捕手が倒れたが応急措置が遅れ、植物人間状態となり10年間の闘病生活の末、2010年2月7日永眠した。生前、野球ファンはこのイム・スヒョクを常に心配し、オフにはロッテの選手たちによる募金活動などもあった。しかし、肝心のロッテ球団側は家族と補償金についてもめ裁判にまで発展したため、イム・スヒョクの件については口をつぐんでいる。
 2009年から、イム・スヒョクと何の関係もないヒーローズが、4月のロッテとの本拠地の試合でイム・スヒョク関連のイベントを実施し、家族に奨学金などを渡していた。この悲劇は野球場の医療体制の不備によるものであり、2度とこのような悲劇を繰り返してほしくないものである。


第8位  ヒーローズの新スポンサーにネクセンタイヤ 
 2月9日、ヒーローズの新メインスポンサーとして、韓国を代表するタイヤメーカーの1つ、ネクセンタイヤと契約を結んだことが発表された。球団が創設された2008年のシーズン途中に、最初のメインスポンサーだったウリタバコが諸事情でメインスポンサーの権利を放棄し、ヒーローズ球団は資金難に陥った。2009年オフにはイ・テックン、イ・ヒョンスン、チャン・ウォンサムの3人の主力選手を高額の現金と無名選手とのトレードで放出し、勝利よりも経営優先の姿勢が大きな波紋を呼んでいた。
 だが近年のプロ野球人気の高まりにより、ネクセンタイヤが2年間のメインスポンサー契約を結び、これでヒーローズの財政も安定するかに思われた。しかし、開幕前の3月にマ・イリョンをハンファへトレードに出して3億ウォンの現金とマ・ジョンギルを獲得し、シーズン中の7月にファン・ジェギュン、オフの12月にコ・ウォンジュンといった有望な若手をロッテへトレードしていて、メインスポンサーがついても体質は変わらないようだ。


第7位  9番目、10番目のプロ野球チームが誕生? 
 1991年、現在の韓国プロ野球8球団制ができあがり、以降サンバンウル、現代といった球団が経営危機に瀕し消滅してきたが、何とか維持されてきた。そして2010年、高まるプロ野球人気により9番目、そして10番目のプロ野球チームを誕生させようという構想が浮上している。以前からKBO(韓国野球委員会)としては球団数を増やしたいという意向はあったが、1990年代後半から2006年ごろまでのプロ野球人気低迷により単なる夢物語のように扱われてきた。しかし近年高まるプロ野球人気により、それが可能だと判断しその準備を進めている。
 まず9番目のプロ野球チームとして、釜山の西方にある韓国南東部の地方都市・昌原(チャンウォン)がプロ野球チームの設立に熱心なため、KBO昌原市との間で協議が進められた。そして12月下旬、有名IT企業・NCソフトウェアが昌原での新球団設立の意思を表明し、他にも複数の企業が名乗りを上げているという。また、首都圏南部に計画されている安山(アンサン)ドーム野球場を本拠地とする10番目のプロ野球チームを設立したい、というアメリカ人投資家も登場するなど、数年後には現在の8球団制は大きく変化しているかもしれない。


第6位  キアタイガース、悪夢の16連敗 
 2009年、神がかり的な勢いで12年ぶり、史上最多の10度目の韓国シリーズ優勝を成し遂げたキアタイガースだが、前身のヘテ時代の栄光は再現できなかった。そして6月18日から7月8日にかけて、球団史上ワーストの16連敗を喫し、前年の歓喜から一転して悪夢を見てしまった。連敗が始まる前の6月17日、キアは3位につけていた。しかし翌18日のSK戦、9回表まで3−1とリードしていたが、ソン・ヨンミン、ソ・ジェウンが打たれ逆転サヨナラ負けを喫すると、地獄の連敗街道が始まった。翌19日のSK戦は先発ロペスが打たれ大敗、20日のSK戦も完封負けとなると、22日から7位ネクセン相手にも3連敗してしまった。しかも23日は、8回裏最初ファールと判定された当たりがネクセン側の抗議によりホームランに判定が変更され逆転負けを喫するなど、運もなかった。
 投手ではユン・ソンミン、野手ではキム・サンヒョンと主力の離脱もあって負の連鎖はさらにつながり、25日からの2位トゥサン相手に3連敗すると、球団史上ワーストタイの9連敗となってしまい、順位も6位にまで後退していた。29日の首位SK戦は頼みのヤン・ヒョンジョンが先発し先制したが、中盤に逆転されてしまい、ついに球団史上ワーストの10連敗となってしまった。結局ここでもSK相手に3連敗し、連敗は12に伸びた。そして7月8日のトゥサン戦で連敗はついに16となり、激怒したファンたちが蚕室野球場の駐車場で選手たちの乗ったバスを取り囲む騒動まで起きた。
 そしてついに翌9日、本拠地光州で最下位ハンファ相手にヤン・ヒョンジョンの好投で21日ぶりの勝利をあげ、連敗は16で止まった。キアはこのあと5位で公式戦を終え、韓国シリーズ2連覇はならなかったが、この16連敗のうち13敗はSK、サムソン、トゥサンの上位3球団相手であり、この3球団に力負けしていたわけであるから優勝争いに加わる資格はないと言われていたも同然であった。


5位  イ・デホ、自信2度目の三冠王と9試合連続本塁打 
 2010年、個人で最も輝いた選手はロッテの主砲イ・デホであることは誰の異論もないであろう。2006年自身初の打率、打点、本塁打と打撃三冠王に輝いていたが、本塁打26本、88打点と数字が低くチームも7位に低迷したため、あまり評価されずシーズンMVPは怪物左腕リュ・ヒョンジン(ハンファ)に譲った。その後もロッテの主砲として活躍を続け、2010年ついに自己最高の成績を収めた。打撃三冠王(打率.364、44本塁打、133打点)だけでなく、得点(99)、安打数(174)、出塁率(.444)、長打率(.667)もトップと、圧倒的な成績であった。その影には、イ・デホのあとを打ち首位打者争いをしていたホン・ソンフンの好調もあった。
 イ・デホが最も輝いたのは、8月4日のトゥサン戦から始まった9試合連続本塁打であった。この試合第30号本塁打を放つと、毎試合1本ずつ本塁打を打っていった。そして11日、本拠地・釜山でのサムソン戦で、ペ・ヨンスから史上最多タイとなる6試合連続本塁打を記録し、翌12日のサムソン戦でアン・ジマンから史上最多となる7試合連続本塁打となる36号本塁打を叩き込んだ。その勢いはとまらず13日のキア戦でもロペスから8試合連続本塁打、14日のキア戦ではキム・ヒィゴルから米国メジャーリーグ、日本プロ野球など他国でも例を見ない9試合連続本塁打の偉業を達成した。だが翌15日のキア戦では本塁打が出ず、ついに記録は途切れてしまった。また、この試合でホン・ソンフンが骨折して戦線を離脱し、以後マークの厳しくなったイ・デホ本塁打をあまり量産できず、44本にとどまった。
 この9試合連続本塁打中、ロッテは4勝5敗と負け越していて主砲の好調を勝利に結び付けられず、こういった甘さが目立つ面が3年連続で準プレーオフの壁を破れないひとつの要因にもなっているといえよう。


第4位  大打者ヤン・ジュンヒョク引退 
 近年、韓国プロ野球では世代交代の波が押し寄せ、球史に名を残す多くの選手たちが引退している。2010年はカ・ドゥギョム(SK)、キム・ジェヒョン(SK)、ク・デソン(ハンファ、元オリックス)がその例として挙げられるが、数々の通算個人記録を持つヤン・ジュンヒョク(サムソン)の引退が最も話題を呼んだ。1993年大学卒業後サムソンへ入団し、以後ヘテ(現在のキア)、LGでもプレーしたが、2002年サムソンへ復帰し、左の独特のガニ股打法からヒットやホームランを量産、4度の首位打者に輝いた。また出身地・大邱(テグ)を本拠地とするサムソンを3度の韓国シリーズ優勝に導いた。
 打席での圧倒的な存在感で30代後半になっても衰えが見られなかったヤン・ジュンヒョクであるが、40歳が近づいた2008年から故障が増え出場機会が減り、41歳を迎える2010年シーズンは引退をかけた1年となった。だがチームは若手の台頭が目覚しく、ヤン・ジュンヒョクの出番は少なくなった。しかし監督推薦選手として出場した地元大邱でのオールスター戦(7月24日)では史上最年長での出場記録を更新し、見事に3ランを放ちファンたちを大いに沸かせた。その2日後の7月26日、ヤン・ジュンヒョクは突然2010年シーズン限りでの現役引退を表明した。だがヤン・ジュンヒョクは試合にこそ出場しなかったがベンチには入り続け、優勝争いをする若手主体のチームを激励し続けた。
 そして9月19日、大邱で盛大な引退試合が行われ、サムソンのみならず韓国中の野球ファンたちが押し寄せ超満員の観客で球場は膨れ上がった。ヤン・ジュンヒョクは3番指名打者で先発出場し、SKの若きエース、キム・グァンヒョンと真剣勝負を見せたが、3打席連続三振に終わった。キム・グァンヒョンにとって、ヤン・ジュンヒョクはプロ初登板の試合で初被本塁打を浴び自身も敗戦投手となった因縁の相手であり、大打者の最後の試合に失礼がないように全力で投球したのである。そして第4打席は内野ゴロに倒れ、出場試合数(2135)、安打数(2318)、本塁打数(351)、打点(1389)など数々の個人通算記録を持つ大打者はバットを置いた。試合後は激しい雨の降りしきる中盛大な引退セレモニーもあり、まるですべての野球関係者やファンたちが別れの涙を流しているかのようだった。
 その後のトゥサンとのプレーオフでもヤン・ジュンヒョクはベンチに入ったが、SKとの韓国シリーズを前にした監督会議で、出場選手登録されていない選手がベンチ入りするのは規定違反ではないか、というSK側の主張があった。それが通り、ヤン・ジュンヒョクは韓国シリーズではベンチ入りできず、チームも4連敗でSKの前に屈した。ヤン・ジュンヒョクという選手の存在感が単なる一選手を超えていたことがよくわかる。今後は指導者の道を歩むため、海外でコーチ研修を受けることになっていて、第2のヤン・ジュンヒョクを育てることを期待したい。


第3位  激闘!ポストシーズン!やはりSKは強かった! 
 2010年シーズン、プロ野球界の頂点を決めるポストシーズンでは、近年まれに見る激闘が繰り広げられた。
 まずは準プレーオフ:トゥサン−ロッテで激闘の幕が上がった。第1戦ロッテが9回表チョン・ジュヌの決勝本塁打により10−5で勝利すると、続く第2戦は延長戦にもつれ込んだが10回表イ・デホの勝ち越し3ランで4−1と勝利して、プレーオフ進出に王手をかけ2年連続で跳ね返されてきた高い壁を意図も簡単に越えられるかと思われた。だが、近年大舞台で勝ったことのないチームにあと1勝はあまりにも重荷だった。
 舞台をロッテの本拠地に移した第3戦は接戦となり、チョン・ジュヌの打った大飛球がアドバルーンにあたりグラウンドに落ちた際、トゥサン側の抗議によりこれがアウトになってしまうなど、ロッテに運がなくトゥサンが6−5で接戦を制したあたりから、流れが一気に変わった。第4戦は終盤まで接戦となったが、9回表トゥサンがチョン・スビンの本塁打などで突き放し11−4で勝利し、2勝2敗となり決着はトゥサンの本拠地・蚕室野球場での第5戦にもつれこんだ。トゥサンは序盤から打線が爆発し、ロッテも集中力を欠いてしまいまたもや11−4で勝ち、第3戦からの3連勝でトゥサンがポストシーズンでの経験を生かし、プレーオフにコマを進めた。
 これで3年連続準プレーオフ敗退となったロッテは、イ・デホ、ホン・ソンフンなどの強力打線の勢いだけでは、柔軟な戦い方を要求されるポストシーズンの決戦を勝ち抜けないことをいやと言うほど思い知らされ、チームの未熟さをもさらけ出してしまった。
 サムソンとトゥサンとのプレーオフは、準プレーオフ以上の激闘となった。サムソンの本拠地・大邱での第1戦は、終盤までトゥサンがリードしていたが、8回裏パク・ハニの逆転3ランなどでサムソンが6−5で勝利した。トゥサンは準プレーオフを勝ちあがった勢いがまだ残っていたが、やや実戦から遠ざかっていたサムソンは、シーズン中に無類の強さを発揮していたリリーフ陣が機能せず、チーム状態は悪かった。それがトゥサンに有利に働き、第2戦は雨で2度の中断があったが、先発ヒメネスの好投もあり4−3でトゥサンが逃げ切った。
 舞台を蚕室野球場に移した第3戦は、シーソーゲームの死闘となった。トゥサンのキム・ソヌ、サムソンのチャン・ウォンサムと両先発が早々と降板し、打撃戦となり6−6のまま延長戦に入った。サムソンは11回表押し出しなどで2点を勝ち越したが、トゥサンは11回裏同点に追いつきソン・シホンのサヨナラタイムリーで9−8と接戦を制し、韓国シリーズ進出に王手をかけた。第4戦はサムソンが途中まで5点をリードしていたが、トゥサンが執念で同点に追いつき、またもサムソンが1点を勝ち越し突き放すと、最後はペ・ヨンスの力投でリードを守りきり、8−7でサムソンが勝ち2勝2敗となり、準プレーオフ同様決着は第5戦にかかることになった。
 再び大邱に舞台を移した第5戦は、サムソンの先発チャ・ウチャンが打たれトゥサンに5点を先行された。しかしトゥサンも先発のヒメネスを早めに代えたのが失敗で、徐々に点差をつめられていった。そして1点をリードされた6回表から、サムソンは第3戦で先発したばかりのチャン・ウォンサムを登板させ必勝体制に出た。すると6回裏サムソンはイ・ヨンウクのタイムリーで5−5の同点に追いつき、その後トゥサンのイ・ヒョンスン、イム・テフンとチャン・ウォンサムの投手戦が続き、試合は第3戦に続いて延長に突入した。そして引き分けによる再試合の可能性もささやかれるようになったが、サムソンが11回裏満塁のチャンスでパク・ソンミンのサヨナラ内野安打により6−5で勝利し、韓国シリーズ進出を決めた。このプレーオフは、5試合すべてが1点差、うち延長戦が2度と大変な激闘となり、続く韓国シリーズも熱戦が期待された。
 しかし、もともとチーム状態のよくなかったサムソンは激闘の疲労が抜け切れないまま、非常に総合力の高いSKとの韓国シリーズに臨まなくてはならなかった。韓国シリーズに向けて十分な調整をしてきたSKは、公式戦とはまた違った継投パターンを見せ、シリーズMVPを受賞したパク・チョングォンの勝負強い打撃などで、4戦全勝で2年ぶり3度目の韓国シリーズ優勝を果たし、見事王座奪回に成功した。サムソンは何とかSKに食らいつこうとしたが、4年連続で韓国シリーズに出場しているSKとの力の差ははっきりしていた。
 韓国シリーズこそ一方的な展開で終わったが、近年のプロ野球人気の隆盛を示すかのようなポストシーズンの激闘は、ファンたちを大いに沸かせるすばらしいものであった。2007年のキム・ソングン監督就任以降、圧倒的な実績を誇るSKを倒すチームはどこになるのだろうか?


第2位  韓国代表、広州アジア大会5戦全勝で優勝  11名の選手が兵役免除 
 2010年の韓国プロ野球にとって、最大の目標は優勝すれば軍へ入隊したことのない選手たちが兵役免除の恩恵を受ける広州アジア大会で優勝することであった。1998年バンコク大会、2002年釜山大会とアジア大会野球で2連覇した韓国代表は、2006年ドーハ大会で台湾、日本に敗れ3位に終わるという失態を演じていた。その原因のひとつに、兵役を終えていない選手たちに偏向された選手選考が行われていたということがあった。2009年WBC(ワールドベースボールクラシック)で大いにもめた韓国代表監督の人選だが、前年の韓国シリーズ優勝チームの監督が韓国代表監督となるという規定が定められたため、2009年韓国シリーズ優勝チーム:キアを率いるチョ・ボムヒョン監督の就任がすんなり決まった。
 2010年に入ると韓国代表の選手選考が本格化し、何度かのエントリーメンバー発表があり、兵役を終えていない選手たちを中心に、選手たちの目標はチームの勝利以外に栄えある韓国代表のメンバー入りも付け加えられるようになった。そして9月6日、広州アジア大会韓国代表の最終エントリー24名が発表され、韓国シリーズ終了後の10月25日から釜山で合宿に入った。
 その中には米国・メジャーリーグで活躍しているが兵役を終えていないチュ・シンス(クリーブランドインディアンズ)、日本プロ野球で活躍するキム・テギュン(千葉ロッテ)など海外で活躍する選手の名前もあった。2006年WBC以降韓国代表の常連として活躍している選手たちの名前がつらなり、兵役を重視した選手選考とは言えなかった。また、体調不良で代表を辞退したキム・グァンヒョン(SK)の代役として、イム・テフン(トゥサン)が選ばれた。
 広州アジア大会の野球競技は11月13日に開幕し、まずはグループリーグB組で3試合を戦った。緒戦の相手は韓国と同じくプロ選手主体の台湾であったが、1回裏チュ・シンスの2ランで先制すると、3回裏にはチュ・シンスの2打席連続本塁打で4−0とリードを広げ、先発リュ・ヒョンジン(ハンファ)も何とか1失点に抑え、6−1で快勝した。メジャーリーガーのチュ・シンスが格の違いを見せつけた試合であった。グループリーグの残り2試合は香港相手に15−0、パキスタン相手に17−0とともにコールド勝ちし、B組1位で準決勝に進出した。
 18日の開催国中国との準決勝では、2回裏パク・キョンワン(SK)のタイムリーで2点を先制し、先発ヤン・ヒョンジョン(キア)がすぐに1点を返されたが、3回裏チュ・シンスの大会第3号本塁打で1点を追加した。このあと少しずつ点差を広げ、7回以降ユン・ソンミン(キア)、ソン・ウンボム(SK)、アン・ジマン(サムソン)の継投で反撃を断ち、7−1で快勝して決勝に進出した。
 決勝の相手は、グループリーグ緒戦でも対戦した台湾だった。韓国は1回表チュ・シンスのタイムリーで1点を先制したが、先発リュ・ヒョンジンがその裏すぐに同点に追いつかれた。だが2回表パク・キョンワンの1点を勝ち越すと、3回表イ・デホ(ロッテ)、カン・ジョンホ(ネクセン)の本塁打などで6−1とリードを広げた。台湾は4回裏2点を返すと、調子の上がらないリュ・ヒョンジンは5回からマウンドをユン・ソンミンに譲った。韓国は7回表カン・ジョンホのタイムリー、9回表カン・ジョンホのこの試合2本目の本塁打でリードを広げ、ユン・ソンミンは相手の反撃を完全に断ちそのまま9回まで投げきり、9−3で勝利し5戦全勝で広州アジア大会優勝を決めた。
 国内外の一流プロ選手を集めた韓国は圧倒的な優勝候補で、まったく危なげのない優勝は半ば義務と化していた。そしてチュ・シンスなど11名の選手が兵役免除の恩恵を受けた。次の2014年アジア大会は韓国・仁川で開催され、野球韓国代表は開催国として大会2連覇を賭けた重圧の中で戦うこととなる。1990年代末以降、プロ野球人気を引っ張ってきている野球韓国代表の戦いはしばらく見られないが、この広州アジア大会で得た自信と経験が今後の国際大会でも生かされ、野球人気の向上と定着に大きく貢献することであろう。


1位  2年連続で史上最多の観客動員数更新 
 1982年に創設され、国民的スポーツとしての地位を確立した韓国プロ野球。観客動員数が史上初めて500万人を突破した1995年ごろを一つのピークとして、経済不況やスター選手の海外流出などで1990年代後半からプロ野球人気は低迷していった。その傾向は2006年ごろまで続き、人気球団ロッテの4年連続最下位など長期低迷で観客動員数は全盛期の半数程度、200万人台まで落ち込んだ。しかしロッテの復調とともに2007年ごろから観客動員数は増え始め、2008年北京五輪優勝、2009年WBC(ワールドベースボールクラシック)準優勝と、野球韓国代表の国際大会での好成績により、プロ野球人気は一気に上昇し、2009年は史上最多の約592万5000人を記録した。
 そこでKBO(韓国野球委員会)は、2010年の目標を観客動員数600万人以上とし、達成のためのひとつの手段として、プロ野球通算1億人目の入場者にプロ野球生涯無料観戦券をプレゼントすることにした。そして3月27日の公式戦開幕後、週末ともなると野球場には大勢の観衆が押しかけ、暖かくなった5月には入場券完売の試合も珍しくなくなった。そして5月30日のロッテ−SK戦で、1億人目の入場者となった男子中学生に生涯無料観戦券が贈られた。
 KBOにとって、観客動員数増加のひとつの障害となるのがサッカーワールドカップであった。野球以上にスター選手の多くが海外でプレーしていることもあり、あまり国内のサッカーリーグは人気がない韓国であるが、その反動もあってかワールドカップの盛り上がり方は異常で、日本との共同開催だった2002年大会はプロ野球人気自体が低迷していたこともあり、大会期間中野球場に閑古鳥が鳴いていた。2010年も、ワールドカップ開幕が近づいてきた5月後半から、プロ野球の試合でもサッカー韓国代表の健闘を願うイベントも実施されるほどであり、ワールドカップへの国民の期待はプロ野球にも少なからぬ影響を与えていた。
 南アフリカでの韓国代表の試合があった6月12日の土曜日、プロ野球は開始時刻を普段より1時間早い16時とし、同じく6月17日の木曜日は普段より2時間早い16時半とするなど、ワールドカップと試合時間がかぶらないようにした。見事国民の期待にこたえたサッカー韓国代表はベスト16へ進出する快進撃を見せ、国民は韓国代表の応援でエネルギーを使い果たしたか、野球場に足を運ぶファンは一時的に減少したが、韓国代表が敗退し7月になると少しずつ野球場にも賑わいが戻ってきた。
 8月以降は悪天候もあり思ったほど客足は伸びなかったが、最終的には約592万8000人の観客がプロ野球公式戦に足を運び、前年を3000人程度上回り、2年連続で観客動員数新記録を更新した。熱戦の続いたポストシーズンも、毎試合満員御礼となった。
 2011年で創設30年目を迎える韓国プロ野球は、今まさにその絶頂期にあると言っていい。球団別に見ると、もっとも観客動員数が多かったのはロッテの約117万人で、前年の138万人より20万人以上減少したが、2年ぶり3度目の優勝を果たし、本拠地・文鶴野球場が年々改装され魅力ある空間となっているSKが約98万人と、前年より14万人も観客数を増やした。その他トゥサン、LG、サムソン、ネクセンは増加、前年の優勝から5位に後退したキア、2年連続最下位となったハンファは減少した。
 2011年、韓国プロ野球は創設30年目という節目を人気絶頂の中で迎えることとなる。プロ野球30周年ということで各種イベントが計画されるようで、このまま大きなつまづきさえなければ悲願となる観客動員数600万人突破は夢ではないであろう。

(文責 : ふるりん